濱音ヒストリー その12
昔、横浜ビブレにライブハウスがあった。
現在は古着屋さんとなっているあのビブレの最上階が、ミュージシャンたちが汗まみれになって(時には涙まみれになって)魂を放出する戦場だったってことはもう、知らない人のほうが圧倒的に多いと思う。先輩ミュージシャンによれば80年~90年代前半のビブレはデモテープ審査が全然通らないほど敷居が高かったそうだ。
ビブレのライブハウス閉店後、横浜でのライブシーンは中心を関内に移していった。
B.B.Streetや7th Avenueなど、多くの魅力的なライブハウスがあるが、中でも全国ツアーをやるバンドの多くが、横浜の拠点として関内CLUB24(トゥーフォー)を選んだ。
横浜でやるなら、ここしかない。
2001年の年明け頃、見よう見真似で書いた企画書を持ってCLUB24のドアを叩いた。
「今、横浜のストリートシーンが凄いことになっている。その集大成的なイベント「濱音」をこの場所で開催したいんです」
ライブハウスのブッキング担当は、大村さん。優しい物腰の奥に鋭い眼光が光る。
正直、当時の自分たちにとってはチャレンジであった。実力的に、全国ツアーで百戦錬磨のプロのバンド達が挙って出演するこのステージに立つのは、僭越な気持ちが多少なりともあったわけだ。けれど、そこをおしてでも24のステージで「濱音」をやりたい。その意味を、大村さんに僕らなりのやり方で伝えた。
数多くのバンドを見てきた大村さんが「それじゃあ、やってみましょう」と言ってくれたあの瞬間。横浜の1日を僕らに任せてくれたあの瞬間を、忘れることができない。CLUB24の名に恥じないライブをしよう、と決意した。大げさに聞こえるかもしれないが、それくらい気合の入るハコなのだ。
冷たく長い石の階段を降りて一つドアを開ける。さらに階段を降りて行くと、年季の入った重い鉄の防音ドアが待ち受けている。「覚悟はできているか?」そう問いかけているかのようだ。
しかしそのドアを開けてしまえば、サイケデリックなウォールペイントが妙に暖かみのある、天井の高いライブ空間。けっして小奇麗とは言えないけれど、だからこその愛着がCLUB24にはある。
お客さんには分かりづらい部分で、
意外とミュージシャン泣かせのハコだ。
ステージ上手(かみて)側にドアがある。
そこからステージに上がるのだが、そこまでの裏の導線(通路)が、極端に狭い。非常階段のような鉄網でできた階段を注意深く降り、ビルの空調設備の熱風を浴びながら、貯水槽の脇をすり抜けて、ようやくたどり着くのがCLUB24のステージだ。晴天の日はまだいい。寒い日や雨の日は、出演までの時間を寒冷や雨の雫を避けながら待つことになる。ちょっとキツい。
それでも出たい、CLUB24。
それでもやりたい、CLUB24。
楽屋は同じビルの上の階にあった。
色んなバンドのステッカーやチラシや落書きが所狭しと並んでいる。並んでいるというかここでも戦っている。学生時代聞き込んだ憧れのバンドや、話によく聞く伝説のグループのものもあって。彼らと同じ場所でライブをできるということ、そこに名を連ねることができたということが、多くのミュージシャンの誇りとなり、勇気になっていた。
魂を込めて一気に放出させる「ライブハウス」という場所には、それだけで気の漲りを感じる。こちらも気を張って正々堂々と対峙しないと、簡単に崩れ落ちてしまいそうな緊張感。積年の想いが行ったり来たりした場所だからこそ、感じることができるFeelingがあるんじゃないだろうか。だからつい、足を運んでしまうんじゃないだろうか。
そんなわけで、
みんなこの場所を愛していた。
2007年12月11日閉店。
悲しい知らせを聞いて、TAKUは即座に電話をかけた。
「空いている日があったらあのステージでもう1回だけ、濱音やらしてください」
今回はCLUB24スタッフのご好意もあり、急遽「濱音」に日程を割いてもらった、というわけなのです。
つづく。
開催まであと17日。
by hamaoto
| 2007-11-13 00:20
| ◆濱音ヒストリー◆